2008年02月25日
ケマル・アタテュルク
こんなことがあるんですね。
もっと勉強しないといけないですね。
生い立ちと軍人時代
ケマルは、1881年、オスマン帝国マケドニア州の州都セラーニク(現ギリシャ領テッサロニキ)のコジャ・カスム・パシャ街区で、税関吏アリ・ルザー・エフェンディと母ズュベイデ・ハヌムの子として生まれた。夫妻は『選ばれし者』を表す「ムスタファ」と命名し、後に、セラーニク幼年兵学校の数学教官ムスタファ・サブリが、「ケマル」(「完全な」を意味する)を加えたため、ムスタファ・ケマルとなった(1934年に彼自身が制定させた苗字法の施行まで、トルコ人には姓はなかった)。 ケマルは、父アリ・ルザーの希望で、西洋式教育を実施していたシェムスィ・エフェンディ小学校に進んだが、父が死亡したため、家族で叔父の許に身を寄せた。しばらくして、母ズュベイデがラグプ・エフェンディと再婚したため、ケマルは、ホルホル街区の叔母の家に身を寄せた。セラーニク幼年兵学校(軍人を志した契機は、近所の幼年兵学校生徒の制服が気に入ったためとも、オスマン軍士官だったラグプの息子の奨めがあったためとも言われる)では、フランス語教官ナキユッディン(後の国会議員)、マナストゥル少年兵学校では、歴史教官メフメト・テヴフィク(後の国会議員)らの影響を受けた。また、士官学校では、校長エサト(ビュルカト、後の軍司令官)、オスマン・ヌーリ(コプタゲル、後の国会議員)らの薫陶を受け、同期生のアリ・ファト(ジェベソイ、1926年のイズミル事件で失脚)、メフメト・アーリフ(1926年のイズミル事件で絞首刑)、サーリヒ(ボゾク、遠縁)、ファト(ブルジャ、遠縁)、一期先輩のアリ・フェトヒ(オクヤル)、一期後輩のヌーリ(ジョンケル、竹馬の友)、キャーズム・カラベキル、キョプリュリュのキャーズム(オザルプ)らと親交を深めた。ケマルは、1901年に士官学校を卒業(席次は第8位)し少尉に、1905年に参謀学校(陸軍大学)を修了(席次は第5位)し参謀大尉に任官した。士官学校在学中からアブデュルハミト2世の専制に反感を抱いており、参謀学校の同期生リュテュフィ・ミュフィト(オズデシ、後の国会議員)と共に最初の任地ダマスカスで秘密組織「祖国と自由」を設立し、無断でセラーニクに戻り、マケドニア支部を設立したという。 1906年にマケドニアでは、青年将校や下級官吏が、パリの統一と進歩協会(青年トルコ党)の現地支部を設立し、ケマルが1907年にセラーニクに転属されたときには、「祖国と自由」の支部も統一と進歩協会に吸収されており、タラートや、ジェマールが力を持っていた。そして、立憲革命の成功で、レスネのニヤーズィやエンヴェルらが「自由の英雄」として名声を獲得した。1909年の3月31日事件(立憲革命に対する反革命)による生じた混乱を収拾すべく、第3軍(セラーニク駐屯)と第2軍(エディルネ駐屯)から部隊がイスタンブルに分派されたが、ケマルは、第3軍から派遣された予備師団の作戦課長として、その行軍計画を立て、「行動軍」と命名した。統一と進歩協会の職上軍人の政治活動を禁止する提案が為されていたが、ケマルは、第二回大会で、再提案した(第一回大会でもキャーズム・カラベキルらにより提案されていた)。1911年にイタリアがリビアに侵攻(トラブルス・ガルプ戦争、イタリア?トルコ戦争)したため、エンヴェルら統一と進歩協会の中の特務機関を構成する活動家たちと共にリビアに赴き、1年近くゲリラ戦に従事した。バルカン戦争では、スティリアン・コヴァチェフ将軍の指揮するブルガリア第4軍の前に完敗。戦後、ケマルはソフィア駐在武官となり、陸軍大臣となったコヴァチェフの娘「ミティ」に接近した。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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